2018/06/28 14:42
トルコ風呂、おスペ、バイオレンスetc…現代性風俗の前身となった“性的サービス”発展の歴史【性風俗シリーズ第3弾】
【第1弾】
「性風俗」を語りませんか? 遊郭、ちょんの間etc..「花街の歴史」を貴重な写真とともに振り返る【性風俗シリーズ第1弾】
【第2弾】
“肉の防波堤”とは? 米兵から日本の女性を守る国策──学校では教わらない敗戦&売春の真実に迫る【性風俗シリーズ第2弾】
RAA以降の性風俗
中田:
これが江戸通りの写真です。RAA施設だったんですけども、赤線になったんですね。ちょっとおしゃれ。
ニポポ:
映画のワンシーンみたいですね。
中田:
次の写真が、吉原ですね。これも、一時期RAAだったんですけれども。
ニポポ:
おしゃれですね。
中田:
ええ、風情があっていい感じですよね。
これは鳩の町です。
ニポポ:
こういった夜の街というのは、いわゆる外国人連合国の当時の人たちは、入れたんですか?
中田:
RAA時代は入れました。
これは新宿二丁目ですね。
ニポポ:
きれいですね。スタイルもいいですね。
中田:
そう。服装も化粧も、あか抜けているんですよね。
これは、横浜にあった、外国人専門の売春ホテルですね。
ニポポ:
売春ホテルというのがあったんですね。
中田:
「チャブ屋」と呼ばれていました。
ニポポ:
満面の笑みですね。
中田:
で、RAAがなくなったあと。これがソープランドの元祖、東京温泉です。
ニポポ:
娯楽サウナっていう扱いだったんだ。
中田:
これが、東京の東銀座ですね。トルコ風呂の元祖個室付き浴場東京温泉ですね。
ニポポ:
なるほど。
中田:
ちなみに、これは性的サービスありません。あくまでこれはサウナなんだけれども、「おスペ」と呼ばれるサービスがあったんですよ。
おスペとは「スペシャル」のことなんですけれども、いわゆるスチームバス補助員が付くんですけれども、この補助員がプレイをしてくれると。
ニポポ:
いわゆるハンドサービスが入るわけですね。
中田:
吉原組合がありますから、警察に目を付けられるんで、最初はそういうことはしませんと。ところが、やっぱりスペシャルをさらに過激にしたサービスというのが、出始めちゃうわけですよね。
そして、これがハンドからリップになったりとか、アルバイト料亭とか、いろんな言われ方をしていく。これがどんどん派生していくんですね。
これは大阪の飛田新地なんですけれども、赤線廃止後、アルバイト料亭と言われていたんですね。
ニポポ:
アルバイト料亭ということになっていたんですね。
中田:
ええ。大阪ではアルバイト料亭という言い方をしていたんですけれども、アルバイトサロンという言い方も存在していたんですね。料亭というのは、畳、座敷があるから。
これは何かというと、アルバイトサロンの場合は、お客さんのひざ元にハンカチを置いて、女の子もハンカチ置いて。その下でもぞもぞするという。
一方で、飛田の方に座敷があるので、アルバイト料亭と呼ばれていたんですね。
ニポポ:
しっかりお座敷が2階に設けられていて、ということですね。
次がトルコ風呂ですね。女性従業員、洋服を着てますよね。
ニポポ:
本当ですよ。マッサージみたいな感じ。
中田:
これは裸とは無縁で、当時のトルコ風呂は着衣のままサービスしていたんですね。それが「マナーベッド」と言われているサービスなんです。
ニポポ:
いい言葉ですね。
中田:
マナーベッドというのは、お客さんの身体を舐めまくるというだけのサービス。
ニポポ:
いいマナーがここにはある。
中田:
で、こうした新しいプレイとか、新しいサービスには、警察は何も言えないわけですね。
ニポポ:
やっぱり後手後手になっちゃうわけですね。
中田:
これはつまり、性行為として摘発できるかどうかというのを、警察署内で延々会議やって。これは摘発できるのか、それともできないのか。そして、摘発となったら、また新しいサービスが生まれる。
性風俗の発達の歴史というのは、この摘発と開発の歴史なんです。
ニポポ:
いたちごっこなんですね。
中田:
日本の性風俗の発展ていうのは、本当にこういうことの繰り返し。だから、赤線売春防止法以降、赤線が廃止された後も、赤線業者たちというのは、RAAのときに巨額の金がばらまかれているんですよね。
そして、それはうやむやになって、返さなくていいということになっている。うやむやになっちゃった。だから、性風俗の発達の手助けしているという側面もある。
ニポポ:
すごい。実は、現状の名残である性風俗も政府資金が回っていた可能性が。
中田:
そうですね。ですから、赤線は、結局、GHQが「売春ダメだよ」と言ったことによって、遊郭とか、カフェ建築とかいう形になっているんですよ。
※こちらの画像は過激な内容が含まれるため、加工が施してあります。無加工の画像は関連動画よりご覧ください。(関連動画へのリンクは記事末に掲載)
ニポポ:
これは「マット」と言うやつですね。
中田:
ですけれども、当時は「バイオレンス」という名前のサービス。今は、マット洗いって言っていますね。
これが、いわゆる特殊浴場の女性たちですね。
※こちらの画像は過激な内容が含まれるため、加工が施してあります。無加工の画像は関連動画よりご覧ください。(関連動画へのリンクは記事末に掲載)
これは「二輪車」ですね。年々サービスとテクニックが激化していくわけですね。これは、業者間競争ですから、業界でサービスを競い合う状態ですね。
で、当時のいわゆる戦後のトルコのこれは、流行していた当時の様子ですね。
ニポポ:
ゴージャスですね。作りが半端ないお金のかけ方をしていますね。
中田:
日本髪を結ったお店もありましたし。いろんな形態があったわけですよね。
次の写真がこちら。これがいわゆる、沖縄の売春ですね。こういう本があるんですね。もうひとつのひめゆり部隊。いわゆる、肉を使って米兵から女の操を救った女たちがいたんだと。
ニポポ:
すごいですね。これもチェックしましょう。
中田:
沖縄というのは、本当に大変な目に遭わされていますから。女性たちがいっぱい凌辱されちゃって。だから、遊郭街というのもいっぱいできたんですよね。
次の写真。これが、沖縄真栄原ですね。ここも、もうなくなりましたね。
次が、沖縄吉原社交街ですね。これはちょんの間です。
ニポポ:
1部屋の感覚の狭さ(笑)。これ、建築法とか危ないですね。
中田:
ちょんの間街というのは、横浜にもあったし、町田にもありましたけど、全部摘発でなくなりましたからね。こういう非合法売春地帯というのは、日本からほぼ壊滅しました。
ニポポ:
確かに。火事とか起きちゃったら相当危ないですもんね。
戦後、生きるためにうまれた「パンパン」たち
中田:
売春地域として認められたエリアが赤線、それ以外は青線と呼ばれたんですよね。そして、私娼の方々は当時「パンパン」と呼ばれていたんですね。
これは戦後の東京の写真ですね。
ニポポ:
焼野原ですね。
中田:
米軍の空襲により、焦土と化した東京です。これは両国の上空あたりですね。右が墨田川ですからね。
ニポポ:
そうですね。
中田:
で、戦後、3、4年戦後くらいに、有楽町に夜の女たちが立ち始めるんですね。パンパンの発祥は、有楽町と呼ばれているんですけど。
ニポポ:
あの、華やかなイメージのある有楽町が。
有楽町のパンパンです。その多くは、戦争未亡人。白い化粧をして、やつれた顔でうつむいて、声をかけてくる。
これが「星の流れに」という、夜の女の悲しみを歌った歌なんですよね。パンパンを歌った歌なんですけど、「こんな女に誰がした」という一節が流行語になった。
ニポポ:
すごい。深いですね。
中田:
赤線の女たちとパンパンの女たちというのは、いわゆる公娼の女と私娼の女なんですけど、相容れなかった。公娼と私娼は仲が悪かったんです。
ニポポ:
やっぱり、管理されているのと、野良の人たちとの差があって。
中田:
公娼の女たちは、いい給料で、おしゃれに着飾って。そして、パンパンの人たちのことを「野良猫」とか、「野良犬」、「赤線のかごの鳥」などと呼んだ。なので、すごく仲が悪かったんです。
次の写真が「洋パン」ですね。RAAがダメになってからも、結局個人で外国人相手のパンパンがあった。これを洋パンと呼んだんですね。
ニポポ:
ちょっとおしゃれで悔しい。
中田:
白人専門の白パン、黒人専門を黒パンとか、ブラパンとか、というような言い方を。だから、基地周辺に、米兵相手に客を取るパンパンが激増したわけですね。
ニポポ:
ですよね。彼女たちは、独学で英語を一生懸命勉強したと。
中田:
だから、タフな女たちですよ。まあ、ある意味解放された女たちとも言える。
やっぱり、ひとりで生きていこうと決めた女たちですから、たくましさというか、筋金が入っているわけですよ。ですから、彼女たちの、生き様というのは、いっぱい映画になっているし、いっぱいドラマにもなっているし、いっぱい小説にも書かれているわけです。次の映画がそうですね。
『肉体の門』ですね。これは、鉄の掟を持つパンパングループの姿を描いた、戦後初のベストセラー小説ですね。これ、実に5回も映画化されていますから、パンパンというのは非常に人気のテーマなんですね。
ニポポ:
みなさんもアマゾンプライムにありますから。見てくださいね。
中田:
次がですね。これは、鳩の町の娼婦。鳩の町は赤線だったので、ちょっとおしゃれですよね。
ニポポ:
本当ですね。
伝説の売春婦「メリーさん」と「阿部定」
中田:
次が有名人の、横浜のメリーさんです。
これは、もう、生涯売春婦として生きた、伝説の女のひとりですけれども。彼女は売春婦としてやれるときに、富を蓄えていた。
ニポポ:
なるほど。しっかり将来のことを考えていた。
中田:
晩年は、もちろんそれほどニーズはなかったと思いますけれども、やっぱり若い時に現金で稼いでいた。しかも、納税していたかどうかはわからない。
つまり、売春はキャッシュで行われるということですね。
ニポポ:
すべてがキャッシュオンサービス。
中田:
ですから、もしかしたらを税金払っていないかもしれない。となると、やっぱりお金は溜まりますよね。
ある意味私娼に生きた女たちというのは、法の抜け目を生きてきた女たちでもあって。だから、そういう意味では、ひと財産作れただろうなという女性が、次の写真がですね。
この方は「阿部定」です。彼女も生涯を売春婦として生きたひとりですね。
彼女は、東京の荒川区の待合で、愛人の性器を、情交の果てに切り落としてしまう、という事件を起こしてしまうわけですけど、彼女は、刑務所にいた期間はそんなに長くなかったんですよね。出所したあとは、ずっと売春婦として生きた。
これは、荒川区尾久三業地旧産業地ですね。ここがいわゆる阿部定事件の現場だったんです。今はもう、普通の家が建っちゃってますね。
ニポポ:
そうですね。あの跡地なんだ、と言われちゃいますけど。
中田:
彼女は、売春婦として日本全国を転々とするんです。
次の写真は、兵庫県丹波篠山の大正楼(たいしょうろう)です。ここでも阿部定が働いていたんですね。阿部定は、最後は熱海にいたという話なんですけれども、その後の消息はわからない。
阿部定もメリーさんもそうなんですけれども、やっぱり、生涯を売春婦で生きたという人というのは、当時は少なくなかったですね。
「ニポポのニコ論壇時評6月号」では、「遊郭」「RAA」「近代風俗」の歴史について振り返りました。
それぞれの記事は下記リンクよりご覧ください。
※詳細は下記引用元サイトをご覧下さい。
関連URL:http://news.livedoor.com/article/detail/14931621/