2019/01/18 12:18
過酷な「労働」とひきかえの「贅沢」。遊女をえらんだ人生は幸せだったか?
江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。
■遊女のほとんどは貧困層出身
吉原の遊女は、もとをただせばほとんどが農村の貧農の子、あるいは江戸の裏長屋に住む貧乏人の子だった。貧しい親が、女衒を通じて幼い娘を妓楼に売ったのである。
つまり、遊女は自ら望んで従事した「職業」ではなかった。
遊女は連日連夜、好きでもない男に身をまかせなければならない。要するに、売春を強要される境遇だった。
しかも、多くの遊女は年季の途中、二十代で病死した。
そう考えると、遊女の境遇は不幸かつ悲惨といえよう。
しかし、見方を変えると、当時の庶民の女では考えられないほどの贅沢と安楽を享受できる面もあった。その一例が、図1である。
図1は、妓楼に訪問販売に来た呉服屋が、反物を見せている光景である。
集まって来た遊女は目を輝かせ、てんでに、
「いい柄だね」
「いい生地だね」
などと、評し合っているようだ。
当時、呉服屋が訪問販売をするのは吉原の妓楼か、江戸城や大名屋敷の奥女中くらいだった。
反物の生地と柄を見て選び、着物をあつらえるのは、いわばオーダーメードである。当然、高価だった。
■着物のオーダーメード…考えられないような贅沢
いっぽう、庶民は男女ともに、古着屋で着物を買うのが一般的である。裏長屋の娘、あるいは貧農の娘が反物から着物をあつらえるなど、ありえないことだった。
ところが、遊女であれば、着物のオーダーメードもできたのである。
このように、遊女であれば衣食住の全般において、裏長屋や農村にいたときには考えられないような贅沢ができた。
戯作『四季の花』(文化11年)に、貧農出身の遊女について――
遠き田舎より売られ来ておいらんとなり、よき客に受け出され、思わぬ玉の輿に乗るもあり。田舎に居らば一生、土をほじりて暮らすべきを、親に売られて出世するも人の運にこそ。
と、田舎にとどまっていたら貧しい農民の女房となり、一生、田畑を耕す人生である。しかし、親に売られて吉原の遊女になれば、運がよければ花魁に出世し、さらに富裕な客に身請けされることもある、と。
遊女であれば衣食住で贅沢ができたと先述したが、もっと大きいのは、農作業や家事労働をまったくしなくてよいことだった。
たとえば、貧農の女房になれば、農作業、家事、育児、舅姑の世話など、労働に追いまくられる人生だった。出産、育児、労働に疲れ果て、老いさらばえて、五十前後で死亡する。
しかし、遊女はいわゆる炊事洗濯掃除などの家事労働は、いっさいしなくてよかった。
図2は、花魁が三つ布団に腹ばいになり、按摩に腰をもませているところである。
裏長屋や農村の女にはけっしてできない贅沢だった。
もちろん、遊女には日々、複数の客を性的に満足させねばならない「労働」があった。
女の人生として、農村にとどまるのと、売られて吉原の遊女になるのと、はたして、どちらがしあわせだったであろうか。
※詳細は下記引用元サイトをご覧下さい。
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